KODANSHABOX MAGAZINE PANDRA VOL.3

キャラクターだけの世界
──美少女アニメとしての新房+シャフト作品 黒瀬陽平

 新房昭之は、現在の日本のアニメシーンにおいて、すでに確固たる地位を確立しているアニメ監督である。とりわけ『月詠─MOON PHASE─』(二〇〇四年)以降、アニメ制作会社・シャフトとともに制作されたすべての作品は、ゼロ年代のアニメを語る上で無視することはできない。今でもアニメ誌では、新房+シャフトの新タイトルについて特集が組まれ、タイトルごとの人気も根強いものがある。しかし、にもかかわらず、それらの作品がこれまで正面切って論じられることはほとんどなかったと言っていい。どういうことだろうか。たとえば、新房+シャフト作品についての語り口は、おおむね次のような言い回しである。

  ──大胆なカット割やレイアウトを駆使した「個性的」で「シュール」な演出。ときに「現代アート風」(!)とも称される。デジタル技術を駆使したポップでカラフルな絵柄。PVを見ているかのように「スタイリッシュ」なOP・ED。そして、随所に挿入される「黒板落書き」や「ドリフ演出」のような小ネタの数々──

 新房+シャフト作品をめぐって、あたかもアート・アニメーションを語るかのような言葉の数々が、明確な価値判断を伴うことのないまま繰り返されてきた。そして、「実験的」というレッテルを貼り、彼らの切り開いたアニメ表現の地平を、強烈な「作家性」による達成と位置づける。そのような語りは一見、新房+シャフト作品の特異性を賞賛しているようでそうではない。なぜならそれは、新房+シャフト作品が美少女アニメ」である、ということを忘却させるからである。新房+シャフトが生み出したアニメ表現は、「美少女アニメ」というジャンルの可能性を、徹底して形式的に追求することで獲得されている。その本質を、古典的な「作家性」や、「現代アート」という辺境へ追いやることは、過ぎ去りつつあるゼロ年代のなかで、いまこそ総括されるべき「美少女アニメ」論のための大きなピースを失うことになるだろう。本稿では、「美少女アニメ」として新房+シャフト作品を論じるための、ささやかな枠組みを提示したいと思う。

「美少女アニメ」とは何か

 そもそも「美少女アニメ」とはどのようなジャンルなのか?美少女アニメについての定義は、必ずしも厳密になされているわけではない。現在では、「美少女キャラクターを中心に物語を描く男性オタク向けのアニメ」といった程度まで曖昧に解釈されている。しかし、であるならば、「美少女キャラクターをいかに描くか」によって作品の内実が大きく左右されるジャンルである、と言い換えることもできるだろう。実際に、ここ十年ほどの美少女アニメは、魅力的な美少女キャラクターを描くことにひたすら特化してきたジャンルであったと言ってよい。
  美少女アニメの歴史はさほど古いわけではない。現在の美少女アニメの傾向を把握するために、その歴史を振り返っておくことも悪くはないだろう。紙幅に限りがあるため、具体的な事例等は最小にとどめておくが、一般的に「美少女アニメ」という言葉の起源は、一九八四年に発表されたOVA『くりいむれもん』シリーズに求められる。その後しばらく、アダルトアニメの一ジャンルを示すに過ぎなかった「美少女アニメ」が、現在のような拡がりを持ち始めたのは九〇年代後半のことである。すでに何度も指摘されていることだが、九〇年代後半以降の美少女アニメは、その当時、全席を迎えつつあったPC用の「美少女ゲーム」と歩みをともにし始める。当時高い人気を獲得していた美少女ゲームが次々とOVA化され、しだいに美少女アニメは、「美少女ゲーム原作のアダルトOVA」という関係を定着させていった。さらにう九九年には『To Heart』(原作は九七年、成人向けPCゲーム)が全年齢対象のTVアニメとして大ヒットする。それをきっかけに美少女アニメは、「美少女ゲームの原作のアニメ」として需要増を拡大することとなった。

  「ノベルゲーム」の影響

 しかし重要なのは、このような美少女ゲームと美少女アニメの関係が表現レベルにおいてどのような影響をもたらしたか、ということである。先述したしょうに九〇年代後半以降の美少女アニメは、美少女ゲームを描くことに専念していった。なかでも当時美少女ゲームとしては新しいサブジャンルであった「ノベルゲーム」の形式は、美少女アニメの表現に深い影響を及ぼしている。
  ノベルゲームについてもすでに十分な分析が存在しているが、ここではあらためて、そのシステムをごく簡単に確認しておこう。ノベルゲームでは、マルチヒロイン/マルチシナリオが基本である。プレイヤーはテキストを読みすすめてゆくなかで選択肢を選び、フラグを立て、シナリオを分岐させることで、攻略するキャラクター(ヒロイン)を決定する、というシステムである。プレイヤーは、一回のプレイではゲームの物語全体を読むことはできず、そのつど攻略したいキャラクターとの密接なコミュニケーションを交わし、そのキャラクター専用のエンディングにたどり着かなければならない。批評家の東浩紀の言葉を借りれば、「分岐ごとの純愛」と呼ばれる作品経験であるが、つまりは、データベースとしては複数のキャラクターとシナリオが用意されていても、プレイごとに選択した分岐は、あたかもたったひとつの運命のように、強い一回性を帯びたものとして表れているのである。ノベルゲームのプレイヤーにとって重要なのは、このような、データベースにおける複数性と、プレイの擬似的な一回性を無限に往復することであった。
  このような、いささかアクロバティックな作品経験を支える表現形式はしかし、きわめて単純なインターフェイスとして設計されている。つまり、実際にプレイヤーが向き合うプレイ画面は、一番奥に「背景画」があり、その上にキャラクターの「立ち絵」が重ねられ、そして一番手前にテキストが表示される、というシンプルなレイヤー構造である。プレイヤーによって読まれてゆくテキストにあわせて、場所を表す「背景画」と、登場するキャラクターの「立ち絵」を組み合わせて出力する。それらの画像はごく限られたバリエーションの使い回しであり、状況ごとに異なる画像はほとんど用意されていない。しかし逆に言えば、余計な描写を一切排したこの形式は、目の前に立っているキャラクターとの、一対一の関係を強化するためにこそ作用している。背景の前に立ち、こちらを見つめるキャラクターと向き合ったとき、プレイヤーはすでに「分岐ごとの純愛」を生きることを迫られている。あるいは、たった今まで目の前にいたキャラクターが別れの言葉を口にし、別のキャラクターが現れたなら、プレイヤーはただちにもうひとつの「分岐ごとの純愛」を予感するだろう。余計な描写を排除しているからこそ、プレイヤーは「目の前に誰が立っているか」という単純なシグナルに過剰な反応を向けるのである。

  美少女アニメの構造

 九〇年代後半以降の美少女アニメは、美少女ゲームを原作に扱いつつ、以上のようなノベルゲームの表現形式を受け入れていった。美少女アニメの画面は、美少女ゲームのインターフェイスに近づいていったのである。つまり、ごく簡単に言えば、「背景画」の上にいきなり大きくキャラクターの立ち絵が描かれるような、シンプルなレイヤー構造が露呈するようになる。それは単に「作画」の層が少ない、「貧しい」アニメではなく、むしろ「背景画」と「立ち絵」の間に横たわる空間的な断絶を、演出の手段として利用できるような、新しいアニメの表現形式であった。ひとつだけ補足をしておくと、ここで言う「背景画」と「作画」の空間的断絶を生かした演出とは、かつて日本アニメの特徴としてよく挙げられていた「止め絵の美学」のようなものとは、発想が根本的に異なっている。例えば、現在でも「止め絵」の使い手として知られるアニメ監督、出崎統に代表されるような劇画調の作画や、「ハーモニー」と呼ばれるイラスト調の作画を「背景画」に合わせる、という手法である。一般的にディズニーや東映映画などの「動きの美学」に対置させる「止め絵の美学」は、前提として「背景画」と「作画」の空間的断絶を埋め、有機的な統合を志向しているという点において、美少女アニメとは異なるのである。

  インターフェイスとしての美少女

 こうして、「美少女ゲームのようなアニメ」でしかなかった美少女アニメは、自らの表現形式に自覚的な演出を次々と編み出し、アニメに対する新しい美意識を示していった。そのなかでも、美少女アニメと美少女ゲームの関係を最も直接的に発展させていったのはアニメ制作会社・京都アニメーションである。京都アニメーションは、二〇〇五年に『AIR』を発表して以来、『Kanon』(〇六年)、『CLANNAD』(〇七年)、『CLANNAD−AFTER STORY−』(〇八〜〇九年)と、ゲームブランドKey原作のTVアニメ化を手がけているが、それらはいずれも、マルチヒロイン/マルチシナリオであるノベルゲームのストーリを巧みに圧縮してアニメ化していると課されたのである。ここでは詳しく解説できないが、Keyのシナリオライター・麻枝准は、物語のなかに必ず、別の「もうひとつの世界」(佐藤心)を描くことで知られている。ヒロインたちはそれぞれ、この「もうほとつの世界」に関わっており、多くの場合それによってトラウマを負っている。物語は、視点キャラクターである主人公が、彼女たちのトラウマを回復させようと働きかけることで展開してゆく。主人公は、彼女たちとそれぞれ親密な関係を結ぶことで、きわめて個人的な秘密を知ると同時に、その背後に物語全体を支える「もう一つの世界」の存在を垣間見る。京都アニメーションは、このような物語構造を正確に表現することに成功した。ここではない、どこか遠くの「もうひとつの世界」は、私たちから見えているヒロインの向こう側に等しく存在している。したがって、ヒロインたちは、「もう1つの世界」へアクセスするための多様なインターフェイスとして描かれることとなる。「京アニクオリティ」と呼ばれる作画の本質は、単に「よく働く」ことではなく、口元、指先、髪の毛、瞳の深さなど、むしろ身体の末端を微細に描くことで、インターフェイスとしての精度をあげることにこそあるのだ。そして、私たちからも、ヒロインたちからも遠い場所にある「背景画」は、ときに「もうひとつの世界」の似姿となる。この種の美少女アニメにおいて、「空」の描写が多様化したのは決して偶然ではない。
「インターフェイスとしての美少女」は、美少女ゲームからの影響を全面的に反映した手法であり、Leaf−Key作品が中心となって形成した「泣きゲー」や「セカイ系」と呼ばれる想像力の本質を的確に捉えていた。Key原作の京都アニメーション作品が、ゼロ年代における美少女アニメの「本流」であるかのような印象を与えるとすれば、それ以上のような表現形式上の影響関係からある程度説明することができる。

 視線の解体

 しかし一方で、新房+シャフト作品が探求した表現は、全く別のもう一つの美少女アニメの可能性があることを示している。「インターフェイスとしての美少女」は、画面内に存在する空間的断絶を積極的に演出するための手法として理解できるが、視点キャラクター(男性)と同一化した私たちが、外側から美少女キャラクターを見る、という空間描写における古典的な主客の関係は維持されたままであった。なによりもまず、日常世界の描写を基礎とし、画面の向こうの美少女キャラクターと親密な男女関係を結ばなければならない美少女アニメにとって、視点キャラクターが感情移入のポイントとして画面の外に(あるいは私たちの近くに)設定されていることは必須の条件であるとも考えられる。さらに言えば、たとえばイ『苺ましまろ』(〇五年)のように、たとえ男性キャラクターが不在で、異性間の恋愛要素が周到に排除されたアニメであっても、美少女キャラクターの淡々とした日常を描くだけで、そこには彼女達の戯れを「覗き見る」という視点が成立してしまうのだ。
  新房+シャフト作品においては、この前提こそが破棄されている。『月詠─MOON PHASE─』、『ぱにぽにだっしゅ!』(〇五年)『ひだまりスケッチ』(〇七年)ひだまりスケッチ×365(〇八年)に至る過程で、視点キャラクターとそれによって統一的に把握さえる空間描写は、明らかに段階的な解体を被っている。そこでは、外側からの視線を欠いた、なにか循環的な世界が形成されているように見えるのだ。

  確定記述の記号化

 新房+シャフト作品を特徴づける手法として際立っているのは、キャラクターに対する執拗な記号である。具体的な例を見てみよう。現段階で、『ひだまりスケッチ』と「ひだまりスケッチ×365』は、キャラクターに対して最も多様な記号化を施している作品である。たとえば、主人公の「ゆの」であれば、彼女がしているバッテン(×)の形をしたヘアピン、「ててっ、ててっ」という擬音、「ゆの」という名前のもの、さらにバッテンと、と、彼女のニックネームである「ゆのっち」を組み合わせた「×っち」などが、「ゆの」を表す記号として次々と画面に現れ、「ゆの」として動き回る。ここで注目すべきは、画面に様々な記号が溢れているということではなく、記号化の形式そのものが多様化している、ということである。「ゆの」というキャラクターに与えられた初期設定の図象を、「×」へと変換するのと、「ててっ ててっ」へと変換するのとでは記号化の計の形式が違う。つまり『ひだまりスケッチ』のキャラクターたちは、規格の異なる複数のエンコーダによって変換されているのである。
  さらにその記号化は、物語やキャラクターの心情などを正確に反映させたものではなく、これといって目立った法則性は存在していない。しかし、ひとつだけ遵守されているルールがある。それはどれだけ多様な記号化が繰り返されても、それらは常にキャラクターの確定事項から書き出されており、決してそれを超えてデザインされたりはしない、ということである。もう少し詳しく解説しよう。「ゆの」の例で言えば、彼女がいつもバッテンのヘアピンをつけていることや、「ゆのっち」というニックネームで呼ばれていることなどは、「ゆの」というキャラクターの確定記述の一部である。確定記述は可能性として更新しうる(例えば、ゆのが三角のヘアピンをつけるかもしれない)が、『ひだまりスケッチ』における記号化は、確定記述に先立って行われる(例えば、ゆのが三角の記号で表されたあと、ゆのが三角のヘアピンをつける)ことはない。『ひだまりスケッチ』でキャラクターに適応されている記号化は、すべてキャラクターの確定記述をストックに対して行われているのである。
  この「確定記述の記号化」はしかし、キャラクターアニメの演出としてはきわめて特殊である。そもそも、確定記述とはその名のとおり「記述」であって、それ自体は可視化されていない。本来ならば、複数の確定記述が象を結び、実態が与えられる場所がキャラクターという記号なのである。それに対して『ひだまりスケッチ』のキャラクターは、一つの確定記述ごとに、それぞれちがった記号が与えられてしまう。そこでは初期設定として存在するキャラクターと、記号化された確定記述が同じ表層に並んでいるのだ。すでに述べたように、それら記号化のパターンに法則性はなく、独自に象徴的な体系を組織しているわけでもない。しかし、新房+シャフトはその秩序のなさこそを利用する。少しは注意して見てみると、作品全体としては多様な記号化形式が存在するが、一カットのなかに複数のパターンの記号がひしめくことは極力さけていることに気がつくはずである。隣り合うカットにおける記号化形式の違いは、カット間の落差として感覚されるように配置されている。つまり、カットからカットへの移行がモンタージュ的な跳躍に見えるよう、記号化形式の違いをりようしているのである。『ひだまりスケッチ』におけるこの演出は、視覚的な変化の少ない会話劇にリズムを与えているだけでなく、第五話「こころとからだ」の夢のシーンに代表されるような、位相の異なる世界を描き分けるためにも応用されている。

  キャラクターだけの世界

 新房+シャフト作品の映像言語は、そのほとんどがキャラクターから取り出され、またキャラクターへと帰ってゆく。キャラクターは一度複数の確定記述へと帰ってゆく。キャラクターは一度、複数の確定記述へとバラバラに分解され、それぞれが異なった形式の記号に変換される。そして、それらはそのまま映像言語となって物語を描く。これらの行程がすべて作品のなかで、可視化されて行われているのだ。
  美少女アニメがもたらした「背景画」と「キャラクター(作画)」層の分断、そして「キャラクター(作画)」層の肥大化は、こうしてまた新しい世界を獲得した。キャラクターから作られた記号たちがお互いを参照し続けることで生成する世界。それは外側から見つめる私たちの視線を必要としない、「キャラクターだけの世界」なのである。

おわり

 

HOME